罪と罰(光市母子殺害事件についてのもやもや)

最近報道されている光市母子殺害事件についてのもやもやをはき出してみる。
http://fukutomim.iza.ne.jp/blog/entry/306233/
こちらを読んで。
本村さんは、ネットでこの件をやりとりされることを不快に思われているようなので、簡単にしたい。

本村さんの強靱な理性は尊敬する。自分なら1秒ともAと同席することなど出来ないだろう。
この意見陳述。この意見陳述の背後にある数万の罵詈雑言を押さえ込み、これほどの立派な文章を書ける人はただただ尊敬するしかない。
もしAが逆の立場だったなら、一文字たりとも書くことは不可能だと思う。

これほどの人が市井で普通にまじめに暮らしてきただけというのに、なぜこんな理不尽な目に遭わなければならないのだろう。
もしこれが天の与えた罰だとするなら、本村さんはどんな罪を犯したというのか
それでも、本村さんは、「その殺害現場になぜ自分はいなかったのだろう、せめて不用意に玄関を開けるなと言えなかったのだろう」といった、自分の小さな罪を拾い集めて、妻子を奪われ、それを後悔し続けるという大きな罰を背負って生きてゆくのだろう。

この本村さんの罪に対する罰と比較して、Aの犯した罪に対する罰はどの程度が妥当だと言えるのだろうか?

罪を認識するということは、それ自体が罰になる。
「なぜあの時、あんなことをしてしまったのだろう」という胸を掻きむしるような後悔。
その眠れないほどの後悔の地獄に本村さんは生きているのだと思う。

生きながら地獄にいる。
それがAも同じであるならば、生きて地獄を味合わせるのなら、生きることを許してもよいかもしれない。
それが出来ないならば、死んで地獄へ行かせる以外、どんな選択肢があるというのか。
万死という言葉は、もし地獄が無いのなら、文字通り1万回死んで欲しいという意味だろう。

http://anond.hatelabo.jp/20070921182214
これには反吐が出た。自分が本村さんの立場なら、比喩でなくホントに胃液がなくなるくらい吐いてたと思う。

 例えば、殺人事件の被害者遺族が、交通死亡事故の被害者遺族が受け取る死亡保険金程度(あるいは、それ以上)の経済的救済を受けられたとしたら、被害者遺族は被告の死刑をこれほど強く望むだろうか?


自分なら、妻と子が戻ってくるなら、お金など1円ともいらない。もしお金で戻ってくるなら、それに必要な金額を要求するだろう。
お金さえ払えば、遺族は死刑を望まなくなるというのか?

こういう意見こそ、本村さんがネットで不快に思うであろう意見であり、その罪の意識のなさは、Aと同質のものだろう。

あまりに人の命の重さに対する感覚が軽すぎるんじゃなかろうか?

同じ言葉をお返ししたい。

今枝弁護士のブログ
http://beauty.geocities.yahoo.co.jp/gl/imajin28490/view/20070921/1190331562
自分がもし、とんでもない犯罪を犯して、世間すべてを敵に回すようなことになったとしたら、自分はこの方に弁護をお願いしたいな、と思った。
けれど、この人が検察の立場にたったら、本村さんの立場に入れ込みすぎて、いまの検察以上にどんな手を使っても死刑に追い込むような気がする。

Aは恵まれてる。
被害者遺族に何度も諭され、こうしたりっぱな弁護士も付いてくれている。
現世での御利益は十分受け取ったはずだ。

極刑を強く望む。